世の中マーケットバリュー(市場価値)という言葉が氾濫していまして、私のサイトでも多分エントリー2回に1回くらいはマーケットバリューって言ってるように思うのですが、この言葉が嫌いな人が一定数います。
こんなサイトを運営しておきながらなんなんですけど、マーケットバリューという言葉が気持ち悪い、という人の気持ちはめちゃめちゃ分かるんですよね。
このマーケットバリューという言葉のもつ気持ち悪さの本質ってなんなんでしょうか?
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一つは、人間を商品に例えるわけですから、その瞬間にその人のもつ労働市場での「機能」にフォーカスが当たってしまって、その人のパーソナリティーがどっかにいってしまう点でしょう。
特に外資的・アメリカ的な世界観だと、一つ一つの仕事のJob Description(職務)を明確にしてそれをできる人なら基本的にOKと考えるわけです。
これは公民権運動に由来していて、ようは人種とか国籍とか年齢とかで差別してはイカンですよ、という考え方です。
ところが属性不問にすればするほど、人間が商品に近づいていってしまう面がある。(もちろん差別はダメです)
どういうことか。本来的な労働市場(転職市場・就職市場)が成り立つには「●●という職務をこなせるならその人の属性は問わない」という前提が必須になります。
逆にそうじゃないとどうなるかというと、一つ一つの職務が属人的になります。たとえばA商事のXX課課長の職務は青木さんじゃないとこなせない、みないな感じ。するとその職務をこなせる人を外部調達できなくなります。業務が標準化されず生産性も上がらなくなる。世の中のポジションが全部そうなってしまうと転職したい人も転職できなくなる。
なのでこういう属性不問というのは労働市場が流通性を保つためには必須なのですが、これをつきつめていくと「このスキルを持っている人は誰でもこれくらいの市場価値になる」「この知識がある人はどんな人でも転職市場で年収XXX万円以上で売れる」みたいな、まるでコピー機でも売るような感じになって少しずつ人間的な世界から遠のいていってしまいます。
これって資本主義のジレンマです。
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繰り返しですがこういう人間を商品に例えるという気持ち悪い比喩が成り立つのは、資本主義社会の良い面でもあります。
労働力を商品化できること、労働者が土地に縛られず自由に移動できることは資本主義の構成要素の一部なわけで、そうなる前は山田村の百姓の与兵衛の息子はやはり百姓になる!みたいなパターンしかなかったわけですから。
なんですけど、だからといって商品に例えられる気持ち悪さは拭えるわけじゃない。
そんなわけで企業の採用担当もエージェントも、内定を出すときに「あなたがいいんです!」「あなたじゃなきゃだめなんです!」みたいな体で口説きにかかります。
これは単に口八丁ってこともなくて、やはりこの資本主義社会を成り立たせるうえで、人間がなるべく人間らしさを保つためのある種の工夫とも言えるんじゃないでしょうか。
このサイトは基本的に極力プラグマティックであることを是としていまして、読んでいただけたかたのキャリア形成に役立つ情報を発信していきたいと思っています。
その際マーケットバリューという表現・考え方はやはり便利なんですね。なんで多用してしまう。
なのですがやはり採用に関わる一人として、あるいは人間社会の一市民として、この言葉の持つ気持ち悪さにも向き合うよう心がけたいものですね。